四條畷神社
2015年 06月 19日
吉野から奈良市内を通り
大阪府四條畷市にやってきました。
楠木正行(まさつら)は先帝後醍醐天皇陵に参拝し
如意輪堂に詣でた後、正面の扉に鏃(矢の先)で辞世の句を刻み
四条畷へ向かいました。
引連れた主な家来は143名でした。
南朝の将として戦い
四條畷の戦いで敗死します。御年22歳といわれています。
ここ四條畷神社は、楠木正行を主祭神としています。
境内の後ろは飯盛山が控え
地元の人達のハイキングコースのようで
リュックを背負った人たちが上り下りしていました。
神社の階段を登っていると声をかけて下さる方がいて
私たちが太平記ゆかりの地を巡っていると知ると
正行のお墓が西へ1㌔程離れたところにあることなど
色々と教えてくださいました。
大阪のおばちゃんは親切です。
四條畷の合戦の概要図を河野先生からいただきました。
当時は新開池、深野池が西に広がり
、
東には飯盛山、生駒山、信貴山と南北に山脈が連なり
極めて細長く狭い場所が戦場となっています。
現在の大阪とはかなり地形が違っているのに驚きました。
父、楠木正成が湊川の戦で戦死した後
後を追い自害しようとした正行を母親が
「桜井の駅で父は死ねと教えらたか」と、さとされ
気を取り直し、これより一心不乱に文武の道に励むシーン。
父、正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して
楠正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれます。
地元に住む人々の間では、「楠公さん」と言えば
楠木正行やこの神社を指すそうです。