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桜井の駅跡

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いよいよ最後の地にやってきました。 

「桜井の別れ」の舞台となった桜井の駅跡です。


滅私奉公と書かれた石像の揮毫は公爵近衛文麿です。

かつては「子別れの銅像」が上にありましたが

戦争への供出としてコンクリート製に変わり

今の像は2004年に寄贈されたものだそうです。



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楠木正成が湊川の決戦に向かうにあたり

桜井の駅で、長男楠木正行に今生の別れを告げます。 

正行は父に従いたいと願いますが、正成は

「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて母親の待つ河内へ帰します。

時に正行11歳。

これが、太平記の「楠公父子決別の別れ」のシーンです。



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大阪に住んでいた、はるか昔

友人と電車に乗っていた時に島本町出身の友人が

「あそこが桜井の駅の跡。」と指差した方向は

畑ばかりの中にクスノキが生茂った林のような場所でした。  

なのに今は隣にJR島本駅もでき

すっかり浦島太郎状態で、あたりを見まわしました。



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旗立松(はたたてまつ)

明治30年に松は枯れ、その一部をここに保存しています。

枝を広げた老松のもとに馬を停め

父子の別れをしたと伝わっています。


以前、舞台で舞った「桜井の訣別(わかれ)」にも出てきました。


♪ 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ

木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて

世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上(え)に

散るは涙かはた露か ♪



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正成は、桜井の地にて息子正行に事後を託し

死を覚悟して出陣して行ったのでした。

湊川では激戦の末、もはやこれまでと

正成は弟と「七生報国」を誓い、差し違えて果てたのでした。
 

正成はわが身を天皇に捧げたのみならず

その息子までつかわし、他日の決戦に備え

二重の忠義を奉げた武将として崇拝されています。


駅跡の史跡公園は、多くの「桜井の別れ」にちなんだ碑が残され

上の写真は明治天皇御製の碑です。


子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと


時代が流れたとはいえ明治天皇にとって

正成、正行親子は敵方、北朝の武将です。

皇国思想のために、この碑を建てたのでしょうか?

揮毫は海軍大将・元帥東郷平八郎です。



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陸軍大将乃木希典筆「楠公父子訣別之所」の碑もありました。


「桜井の駅跡」といっても鉄道の駅ではなく

奈良時代、平城京と各地を結ぶ交通路を整備するために

駅(うまや)が設置されていました。

幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために

30里(約16㌔)ごとに設けられ

馬など旅に必要なものを備えていた役所のことです。




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by mami-2013 | 2015-06-20 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)

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