桜井の駅跡
2015年 06月 20日
「桜井の別れ」の舞台となった桜井の駅跡です。
滅私奉公と書かれた石像の揮毫は公爵近衛文麿です。
かつては「子別れの銅像」が上にありましたが
戦争への供出としてコンクリート製に変わり
今の像は2004年に寄贈されたものだそうです。
楠木正成が湊川の決戦に向かうにあたり
桜井の駅で、長男楠木正行に今生の別れを告げます。
正行は父に従いたいと願いますが、正成は
「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて母親の待つ河内へ帰します。
時に正行11歳。
これが、太平記の「楠公父子決別の別れ」のシーンです。
大阪に住んでいた、はるか昔
友人と電車に乗っていた時に島本町出身の友人が
「あそこが桜井の駅の跡。」と指差した方向は
畑ばかりの中にクスノキが生茂った林のような場所でした。
なのに今は隣にJR島本駅もでき
すっかり浦島太郎状態で、あたりを見まわしました。
旗立松(はたたてまつ)
明治30年に松は枯れ、その一部をここに保存しています。
枝を広げた老松のもとに馬を停め
父子の別れをしたと伝わっています。
以前、舞台で舞った「桜井の訣別(わかれ)」にも出てきました。
♪ 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か ♪
正成は、桜井の地にて息子正行に事後を託し
死を覚悟して出陣して行ったのでした。
湊川では激戦の末、もはやこれまでと
正成は弟と「七生報国」を誓い、差し違えて果てたのでした。
正成はわが身を天皇に捧げたのみならず
その息子までつかわし、他日の決戦に備え
二重の忠義を奉げた武将として崇拝されています。
駅跡の史跡公園は、多くの「桜井の別れ」にちなんだ碑が残され
上の写真は明治天皇御製の碑です。
子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと
時代が流れたとはいえ明治天皇にとって
正成、正行親子は敵方、北朝の武将です。
皇国思想のために、この碑を建てたのでしょうか?
揮毫は海軍大将・元帥東郷平八郎です。
陸軍大将乃木希典筆「楠公父子訣別之所」の碑もありました。
「桜井の駅跡」といっても鉄道の駅ではなく
奈良時代、平城京と各地を結ぶ交通路を整備するために
駅(うまや)が設置されていました。
幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために
30里(約16㌔)ごとに設けられ
馬など旅に必要なものを備えていた役所のことです。
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