高遠城 その一
2015年 08月 07日
車窓から残雪が見えただけでテンションあげまくり~。
城下町に入った頃に太鼓櫓のお出迎え。
高遠は、高遠コヒガンザクラで有名ですが
桜の季節は城下町から高遠城址まで観光バスが珠数つなぎだそうです。
車道もそんなに広くないから大渋滞でしょうね。
ひろい駐車場は車一台いません。
でも、桜の季節だけは満車になり城下町まで渋滞が続きます。
高遠は、南北朝の頃からは諏訪氏の所領となり
一族である高遠氏が高遠城を築き伊那一円を治めました。
その後、甲斐の武田信玄が進攻し、支配するところとなり
高遠城は、信玄の家臣であった山本勘助が大規模な改修をしました。
この駐車場のあたりは勘助曲輪(くるわ)と呼ばれています。
伝、高遠城大手門
かつて、城内には四つの櫓門があったそうです。
しかし、明治新政府から城郭の取り壊しが命ぜられ
いずれも競売にかけられ、民間に払い下げられました。
この門は、そのひとつの大手門といわれていますが
切り詰められて当時の姿は残していません。
持ち主から寄贈され、ここに移築されています。
よれて、くたびれた門ですが、過酷な歴史を知ると。
「よく、がんばったねぇ。」と声をかけたくなります。
進徳館、高遠藩士の師弟が学んだ藩校です。
高遠城の中で唯一、現存の建物です。
天下第一の桜碑。
春になるとこの地にしか咲かない
1,500本のタカトオコヒガンザクラが咲き乱れます。
日本3大桜の名所として、桜の時期には
旅行会社がツアーを出していますね。
桜雲橋。緩やかな太鼓橋です。
橋の下は桜の海となっています。
春にはこの緑はいちめんピンク色に染まるのでしょう。
「桜雲橋」の名にふさわしい絶景でしょうね。
橋を渡りきったところが「問屋門」と呼ばれる門。
もともと、高遠本町の問屋役所にあった門です。
問屋役所取り壊しの際、いったん売却されましたが
歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ
町の有志が買い戻し、ここに移築しています。
高遠城は天守閣はなく櫓(やぐら)と塀、屋敷で構成されていました。
当時の進歩した築城技術と武田流兵法を勘案して築いたといわれ
城としての必要条件はみな備えた要害城でした。
信玄は駿河や遠江に進出する重要な基地として
高遠城には、弟ら近親者を置きました。
しかし、信玄が病没した混乱に乗じて
織田信長は武田征伐を開始し
時の城主仁科盛信(信玄の五男)は織田方の和睦交渉を拒否し
織田勢5万の大軍に対し、わずか3千。多勢に無勢。
武田方は玉砕し、武田勝頼も天目山で自害。
最強を誇った甲斐の名門武田氏はこの戦いで滅んだのです。
盛信の流した血により
高遠コヒガンザクラの赤みが増したと語り継がれています。
(つづく)