海龍王寺
2016年 07月 12日
奈良の海龍王寺にやって来ました。
今では、ひなびた土塀が趣のある小さなお寺ですが
創建当時は遣唐使の渡航無事祈願のために建てたという
戒壇を持つ国家の重要な大寺院だったそうです。
パンフレットによると
元々は平城京以前から土師氏ゆかりの寺院だったところ
藤原不比等がこの辺り一帯を譲り受け
寺院も邸宅に取り込まれたそうです。
不比等が亡くなったあと娘の光明皇后が相続し
唐から経典五千巻を携えて帰国した玄昉が
その功績により初代住持となります。
山門をくぐり
鬱蒼とした緑の小路を抜け
開けたところに本堂がありました。
建物は江戸時代のものですが
深い軒の出やゆるい屋根勾配、整然とした柱など
奈良時代の仏堂の特徴を取り入れて作ってあるそうです。
創建当初の姿を今に伝える西金堂。
初代住持・玄昉の時代は天皇家とのかかわりも深く
「宮廷寺院」として天皇家を支えていきます。
この頃が玄昉の人生でいちばん輝いていた時でしょうか。
晩年は力を盛り返してきた藤原氏によって
九州大宰府に左遷され
彼の地であっけなく死んでしまいます。
それにしても、藤原氏は
力をつけた政敵を大宰府に左遷するパターンが多いですね。
菅原道真、吉備真備に玄昉。
西金堂内に安置された
国宝の五重小塔です。
創建当時からここにあったそうで
天平時代の建築技法を今に伝えています。
上層に向けて細くなり
プロポーションも美しい塔でした。
パンフレットには書かれていませんが(当たり前!)
玄昉が亡くなって20年後の
光明皇后の娘、称徳女帝・道鏡時代には
この寺でお釈迦様の仏舎利が出現したというのです。
「道鏡を法王に!」と、称徳天皇が言い出す
きっかけとなったお話しですが
(結局は海龍王寺の道鏡の弟子の捏造でした。)
鎌倉時代創建の一切経蔵
経典や文書収めていた蔵です。
天平の時代は
政治の表舞台で華やかだった(?)海龍王寺ですが
今では時間の経過とともに心安らぐ古刹となり
そんな歴史は微塵も感じさせません。
先日のクルクル髭遺跡に続き、渋い所を巡られてますね!
つい、唸ってしまいました(苦笑)
私も大分前に、訪れたことがありますが、五重小塔がとても貴重な塔だった記憶が……
それより、本堂に、みうらじゅんさんの雑誌などが展示されてた記憶が!?鮮明に蘇ったような気がします(笑)
私も「天平冥所図会」という本を読まなかったら
ここには来ていなかったかもしれません。
光明皇后ゆかりのお寺で玄昉や道鏡の名が出てくると
生き馬の目を抜く政治闘争の場のような
大きなお寺を想像していました。
こじんまりとしていたこのお寺で国宝が見られるとは
思ってもいませんでした。
みうらじゅんさんの雑誌は記憶に残っていないのですが
みうらじゅんさんとご住職は親しい間柄のようですね。
帰ってからHPでご住職のお写真を拝見したら
入口でチケットを売っていた方だったので
びっくりしました。
修行僧の方だと思い込んでいたので。((+_+))
奈良の旅行記、興味深く読ませていただきました。
mamiさんの行かれたお寺は、どこもひと気があまりなく、しんとした印象ですね。
奈良といえば有名な観光地の印象ですが、こんな風に静かで厳かなお寺もあるんですね。
お写真がとても素敵で、お散歩している気分にひたれました❣️
バタバタしてお返事遅くなりました。
うっかり通り過ぎてしまいそうなくらい
間口の小さなお寺なのに
国宝があるのにはびっくりでした。
「 奈良って凄いなぁ。」って改めて感じたお寺です。
たくさんの「イイネ」ありがとうございます。
そうですね。
天平時代の小説の舞台となったお寺ばかりだから
当時は大きく由緒あるお寺でも遷都や廃仏棄釈によって
こじんまりとしてきたお寺も多くありました。
こんなお寺に国宝がゴロンとあるのも不思議な感じで
他県の展示に貸し出される時は
うやうやしくガラスケースの中に鎮座しているのかなぁ?
と、想像しました