カテゴリ:+ 2015.05.16 太平記の旅( 13 )


2015年 06月 21日

太平記の旅

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太平記の旅の目次




各項目をクリックすると各ページにリンクします。

2015-05-22 笠置山を歩く


2015-05-28 赤阪城跡

2015-05-29 吉野山

2015-05-30 吉野の宿 歌藤(かとう)

2015-06-04 勝手神社

2015-06-05 吉水神社

2015-06-10 吉野山の食べ歩き

2015-06-12 金峯山寺(きんぷせんじ)

2015-06-13 如意輪寺

2015-06-19 四條畷神社

2015-06-20 桜井の駅跡


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by mami-2013 | 2015-06-21 21:23 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 06月 20日

桜井の駅跡

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いよいよ最後の地にやってきました。 

「桜井の別れ」の舞台となった桜井の駅跡です。


滅私奉公と書かれた石像の揮毫は公爵近衛文麿です。

かつては「子別れの銅像」が上にありましたが

戦争への供出としてコンクリート製に変わり

今の像は2004年に寄贈されたものだそうです。



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楠木正成が湊川の決戦に向かうにあたり

桜井の駅で、長男楠木正行に今生の別れを告げます。 

正行は父に従いたいと願いますが、正成は

「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて母親の待つ河内へ帰します。

時に正行11歳。

これが、太平記の「楠公父子決別の別れ」のシーンです。



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大阪に住んでいた、はるか昔

友人と電車に乗っていた時に島本町出身の友人が

「あそこが桜井の駅の跡。」と指差した方向は

畑ばかりの中にクスノキが生茂った林のような場所でした。  

なのに今は隣にJR島本駅もでき

すっかり浦島太郎状態で、あたりを見まわしました。



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旗立松(はたたてまつ)

明治30年に松は枯れ、その一部をここに保存しています。

枝を広げた老松のもとに馬を停め

父子の別れをしたと伝わっています。


以前、舞台で舞った「桜井の訣別(わかれ)」にも出てきました。


♪ 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ

木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて

世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上(え)に

散るは涙かはた露か ♪



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正成は、桜井の地にて息子正行に事後を託し

死を覚悟して出陣して行ったのでした。

湊川では激戦の末、もはやこれまでと

正成は弟と「七生報国」を誓い、差し違えて果てたのでした。
 

正成はわが身を天皇に捧げたのみならず

その息子までつかわし、他日の決戦に備え

二重の忠義を奉げた武将として崇拝されています。


駅跡の史跡公園は、多くの「桜井の別れ」にちなんだ碑が残され

上の写真は明治天皇御製の碑です。


子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと


時代が流れたとはいえ明治天皇にとって

正成、正行親子は敵方、北朝の武将です。

皇国思想のために、この碑を建てたのでしょうか?

揮毫は海軍大将・元帥東郷平八郎です。



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陸軍大将乃木希典筆「楠公父子訣別之所」の碑もありました。


「桜井の駅跡」といっても鉄道の駅ではなく

奈良時代、平城京と各地を結ぶ交通路を整備するために

駅(うまや)が設置されていました。

幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために

30里(約16㌔)ごとに設けられ

馬など旅に必要なものを備えていた役所のことです。




やっと全ての記事をアップし終えました。
12の記事となっています。
全てを続けて読むには、「カテゴリー」の
「+2015.05.16太平記の旅」をクリックしてください。





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by mami-2013 | 2015-06-20 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 06月 19日

四條畷神社

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飛び飛びになっている太平記のレポの続きです。


吉野から奈良市内を通り

大阪府四條畷市にやってきました。 


楠木正行(まさつら)は先帝後醍醐天皇陵に参拝し

如意輪堂に詣でた後、正面の扉に鏃(矢の先)で辞世の句を刻み

四条畷へ向かいました。

引連れた主な家来は143名でした。


南朝の将として戦い

四條畷の戦いで敗死します。御年22歳といわれています。



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ここ四條畷神社は、楠木正行を主祭神としています。 

境内の後ろは飯盛山が控え

地元の人達のハイキングコースのようで 

リュックを背負った人たちが上り下りしていました。


神社の階段を登っていると声をかけて下さる方がいて

私たちが太平記ゆかりの地を巡っていると知ると

正行のお墓が西へ1㌔程離れたところにあることなど

色々と教えてくださいました。

大阪のおばちゃんは親切です。



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四條畷の合戦の概要図を河野先生からいただきました。

当時は新開池、深野池が西に広がり

東には飯盛山、生駒山、信貴山と南北に山脈が連なり

極めて細長く狭い場所が戦場となっています。

現在の大阪とはかなり地形が違っているのに驚きました。



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父、楠木正成が湊川の戦で戦死した後

後を追い自害しようとした正行を母親が

「桜井の駅で父は死ねと教えらたか」と、さとされ

気を取り直し、これより一心不乱に文武の道に励むシーン。


父、正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して
 
楠正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれます。

地元に住む人々の間では、「楠公さん」と言えば

楠木正行やこの神社を指すそうです。



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by mami-2013 | 2015-06-19 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 06月 13日

如意輪寺

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北条幕府を倒すも、建武の新政に反旗を翻した足利尊氏は 

いったん九州に敗走し、兵を整え、再び京に攻め上っていきます。

新田義貞、楠木正成らが湊川で尊氏を迎え撃ちますが

多勢に無勢、正成は戦死し、尊氏は上洛に成功します。

ここに、京都の朝廷と、後醍醐天皇を中心とする吉野の朝廷と

二派が生じ、吉野を南朝・京都を北朝と呼ぶに至りました。 



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ここ如意輪寺は、南北朝時代、後醍醐天皇の勅願寺と定められ 

皇位を後村上天皇に譲った後、52歳で崩御されます。

「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」

と京の都を恋い慕う歌を残されました。

ここ塔の尾へ埋葬され、京都に対する願いを表すために

天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっています。



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こちらは、後醍醐天皇の孫に当たる長慶天皇

その皇子の「世泰親王」が一緒に葬られています。




後醍醐天皇の子、後村上天皇は歴代天皇の中では珍しい武闘派で

御陵は、ここにはありません。

楠木正成ゆかりの観心寺にあります。 



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楠木正成の息子、正行(まさつら)公及び百四十三名の髻塚です。




楠木正行は四条畷の決戦に向わんとするにあたり

吉野の皇居に後村上天皇に拝謁します。


「正行よ、汝がたよりである。若し戦不利ならば必ず戻るよう」

とのお言葉を拝しますが、再び帰らぬことを決して

如意輪寺に向かいます。


如意輪堂に詣で、各々髪を切って佛前に奉納し

堂の扉に鏃を以って、

「かえらじと  かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」

と辞世の歌を書き残し、四条畷へ向かいます。


今も宝物殿にはこの句を刻んだ扉が残されていました。



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by mami-2013 | 2015-06-13 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 06月 12日

金峯山寺(きんぷせんじ)

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金峰山修験本宗(修験道)の本山です。

開基は役小角と伝えられています。 


「金峯山」とは、吉野山と、その南方20数キロの大峯山系に位置する

山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)を含む

山岳霊場を含めた名称と伺いました。



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古代からの山岳信仰、修験道の聖地

山伏(と呼んでいいのかな?)さんが大勢訪れていました。


本堂(蔵王堂)は国宝で

重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34mの威風堂々とした建築物です。



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右側の柵に囲われた部分は

後醍醐天皇の第二皇子、大塔宮護良(もりなが)親王が

北条幕府の軍勢に攻められた時、ここ蔵王堂を本陣として立てこもり

落城に際して、この前庭で最後の酒宴を開いた場所だそうです。


本堂(蔵王堂)の南正面に門はありませんが。

かつてはここに二天門がありました。

酒宴も終わり、いざ決戦という時、家臣の村上義光は

護良親王の鎧兜を身につけ、二天門の楼上にかけ上がり
 
身代わりとなり壮烈な最期をとげたと伝えられています。

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中は撮影できませんが

ご本尊は3体の蔵王権現で、火焔を背負い、髪は逆立ち

目を吊り上げ、口は裂け、目を見開いたお姿です。 


説明を聞いている最中に法螺貝の合図とともに

護摩祈願が始まりました。

鐘と太鼓の鼓動に、

うねるような炎が火柱となって燃え盛るようすは

歴史の遺産だけではなく

現代にまで継承され続けた祈りの場としての

金峯山寺でした。 



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金峯山寺の参道をゆるゆる降りていくと

吉野・銅の鳥居(かねのとりい)に出会いました。

室町時代のものと伝えられる重要文化財です。 

高さ約8メートルで額束は「発心門」とあります。


安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木造)(重要文化財、世界遺産)

大阪四天王寺・石の鳥居(重要文化財)

と並び、日本三大鳥居のひとつになっています。









   
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by mami-2013 | 2015-06-12 18:45 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 06月 10日

吉野山の食べ歩き

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とびとびになっています太平記の旅ですが

吉野での食事はやっぱり

「柿の葉寿司」は外せません。

4つもあるので、おそばとセットでお腹いっぱいです。 



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「葛きり」の実演をしているお店もありました。

左端の枝のようなものが葛の根です。

これが葛粉の原料になります。 



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葛粉と水は混ぜても溶けません。

混ぜてもしばらくすると分離してしまいます。

でも、湯煎で暖めると葛粉は溶けて水は白くなります。



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溶かし込んだら、湯の中につけ込むと

一瞬で透明になります。

冷えていくと、白っぽく戻るので

「賞味期限は10分です。」

と説明がありました。

もちろん、ここは「お持ち帰り」はできません。












 

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by mami-2013 | 2015-06-10 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(2)
2015年 06月 05日

吉水神社

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少し歩くと吉水神社です。 

境内の入り口まで来ると

機械で木をくり貫くような、よく通る音が聞こえます

聞けば啄木鳥が木に穴を開ける音だとか!

意外と大きな音で驚きました。

境内の社殿が工事中だったのでその音?

とも思ったくらいでした。 



入り口には「十字の詩」が刻まれ

先生の説明もありましたが

これは、地元岡山県津山市院庄が舞台となったので

逆に先生よりも詳しく説明する人がいるくらいでした。


天勾践(てんこうせん)を空しゅうすること莫(なか)れ

時に范礼蠡(はんれい)無きにしもあらず



吉水神社は、後醍醐天皇の南朝皇居だった場所なので

この詩を後世に残すために門前に掲げているそうです。



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「弁慶の力釘」と呼ばれる石です。

源義経が静御前と共に吉水院の僧坊にかくまってもらっている時

兄、頼朝の追っ手が吉水院に迫った時

弁慶がそばにあった釘を二本抜き、表に飛び出し

「力自慢をいたそうぞ!」と追っ手達の真ん中にあった、この石に

全身全霊の力を込めて親指で二本の釘を打ち込んだところ

弁慶の形相と馬鹿力のような怪力を目の当たりにした

追っ手たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げたと伝わっています。


この時かくまわれていた義経潜居の間は

床棚書院の初期の遺構を残しています。



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北闕門は古来より山伏達の祈りの場でした。

後醍醐天皇もまた、朝夕この門に立たれ京都に向かい

「九字真法」(邪気払い)を切り結び

京都に凱旋する門でもあったそうです。


楠木正成も出陣にあたり、九字を切ったと伝えられています。



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だれでも出来るように、写真で説明がしてあります。



ここを創建したのは役行者(えんのぎょうじゃ)で

格式の高い修験宗の僧坊でしたが

明治政府の廃仏毀釈の観点から

天皇を仏式で供養することが問題視され

吉水院から吉水神社に改称となりました。



社殿の中は写真が撮れませんでしたが

義経と静御前がかくまわれた「潜居の間」が残り

日本最古の書院造りといわれています。

追っ手が迫り、義経はやむ終えず山伏に姿を変え

大峰山目指して逃げますが

女人禁制の山へは静は山には入れず、ここで別れたのでした。 
 

吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき


また、吉水神社の書院は日本建築史上最古の書院として

ユネスコより世界遺産として登録されたています。







 

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by mami-2013 | 2015-06-05 23:59 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 06月 04日

勝手神社

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2日目は吉野の散策です。

河野先生から

「吉野山は広いので、ここではぐれてしまうと土地勘のない皆さんとは

二度と会えなくなるのでしっかり付いてきてくださいね。」

と念を押されます。



勝手神社(かつてじんじゃ)といっても

境内には建物はありません。

かつては、流造檜皮葺(ながれづくりひわだぶき)の

本殿があったそうですが

2001年に不審火で焼失してしまいました。



「神社を燃やすなんてバチ当たりな。」

とみんなで憤慨しながら先生のお話を聞きました。 




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これが、在りし日の勝手神社の本殿です。

境内に看板写真がありました。



由緒のある式内社で

一説には紀元前386年創建とも伝えられているそうです。

紀元前386年って古っ!

神話の時代ですね。
 


大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ

振袖山から天女が舞い降り

5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ

背後の山は「袖振山」と称し

この故事が宮中の「五節舞」の起源となったそうです。



「勝負運」や「芸能」の御加徳が厚いということで 

「ここに参るとコンクールで優勝できるかもよ。」

と言いうと、子供たちが熱心に参拝していました。



また、ここでは静御前が追っ手に捕らわれた際

舞を見せ、それに見とれているうちに

義経が吉野から逃れたとも伝わっています。 


大海人皇子といい、義経に楠木正行…。

歴史の中のアウトロー的な人々は、吉野山に逃げています。

「吉野の人は判官びいきなんですか?」

と聞いたら

「そういうわけではなく

このあたりの修験者は北朝よりだったんですよ。

ちなみに、高野山は南朝よりです。」と。



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神社を出ると、通りには土産物屋さんが並んでいます。

みんながついてこないな~と思って振り返ると

後ろのほうの土産物屋さんに集まっていました。

話を聞いてみたら、山伏が使う法螺貝を売っていて

marinaちゃんが吹いてみたら

一発で吹くことが出来て盛り上がっていたとか!



お昼ごはんを食べるころには、すっかり

「法螺吹きmarinaちゃん」

と呼ばれていました。

知らない人が聞いたら、違う意味に誤解されそう!

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by mami-2013 | 2015-06-04 23:59 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 05月 30日

吉野の宿 歌藤(かとう)

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今回のお宿は「歌藤(かとう)」です。

ログ館のお部屋に案内される途中にあるホールです。

桧の香りが気持ちよく、深呼吸したくなるお宿です。


大黒柱の影にちらっと見える人影はryuくん。

ここには、高い天井の梁からブランコが吊されていて

お気に入りのようでした。



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木の持つぬくもりに溢れた宿です

節だらけなのも、ログハウスならではのご愛敬。

裸足で歩くと更に気持ちが良かった~。



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真冬に来ても心地よく過ごせそうです。

雪を見ながら暖炉の前で暖まって…。 



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お部屋です。12畳ほどの広さでした。

窓の外は吉野の森へと続いています。
 
テレビもあったけれど、必要ないくらい館内で過ごせます。



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一枚物の紅葉の木を使った洗面台。

壁に使っている竹や和紙など全て地元産です。


お風呂も良かったんですが

さすがに写真には撮れないので

歌藤のHPのリンクを見てくださいませ。



旅館歌藤のHP 



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この日の夕食です。

すべて大和伝統地野菜を使った旬の会席料理。

 
もっとよく見たい方はこちらをどうぞ 
 



 歌藤の夕食


 
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次の日は、前日とうって変わって快晴! 



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ryuくん、朝は奥のブランコでご機嫌でした。

このお庭では蜂の巣箱がたくさん置かれてあり

食材へのこだわりを強く感じました。 



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朝食は、このログハウスの中で。

お料理の写真はありませんが、四季折々の山菜や

旬の味覚が丁寧に手作りされていました。 


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窓から眺めた風景です。

桜の季節には、桜と杉のコントラストで埋まるのでしょう。



奈良は、いいホテルが沢山ありますが

ここは、食事、お風呂、部屋、ロケーション、サービス

どれをとっても満足のいくお宿でした。



私たちの泊まった日は

スペインからの観光客も滞在中でラウンジで

楽しそうにくつろいでいらっしゃいました。


季節を変えて、もう一度泊まりたいお宿でした~。





      

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by mami-2013 | 2015-05-30 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)
2015年 05月 29日

吉野山

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千早城をパスして、吉野山にやってきました。

今日のお宿「歌藤」のすぐそばにある「大橋」です。


後醍醐天皇の息子・護良親王(もりよししんのう)は

笠置山を落ち延び

再び、倒幕ののろしを挙げ、吉野城に立てこもった時

城の空堀に掛かる橋です。 



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下から見上げるとこんな感じで、急な崖地です。

この上に城があり

ここから、護良親王が各地の武士に令旨を発し

「ともに戦おう!」と呼びかけたわけですね。

(あくまでも、私の想像ですが…。)



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この時、再び登場するのが

赤阪城の戦いで死んだと思われていた正成です。 


正成は、赤阪城を、早々に奪回し

自らは、その近くに築いた千早城で

幕府の大軍への備えを計り

「太平記」最大の見せ場、千早城の決戦を迎えるわけです。

あ~。千早城行きたかったなぁ。 



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吉野の夕暮れ。

山の上は霧がかかったようにもやっていましたが 

空は薄い茜色に染まり

下界は美しい夕日がさして入るのでは?

と思いながらT先生と散策を楽しんだのでした。

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by mami-2013 | 2015-05-29 18:30 | + 2015.05.16 太平記の旅 | Comments(0)